俺、そしてFULL MONTYのメンバーみんながサッカーが好きなんですが、その中でも俺は馬鹿がつくくらいのサッカー狂なんですね。そして好きなチームが浦和レッズとガンバ大阪。まぁ基本どこも好きなんですけど、レッズのトゥーリオの闘志溢れるプレーが大好きなんです。
まずトゥーリオはですね、ブラジルのサンパウロ州、パルメイロ・ド・オエス(1981年4月24日)にスポーツ界の貴公子の俺KAZUYAと同じ年に生まれました。現在でこそ浦和レッズで中心選手の一人として、日本代表選手として活躍し、有名ですが、ここまでには常人には計り知れない過酷な経験があったようです。
まず日本に来たきっかけが父親は日系ブラジル人2世ということもあり、16歳の時、千葉県の渋谷幕張高校がブラジルで行っていたスポーツ留学生のテストに合格したことがきっかけで日本に留学。Jリーグを目指してサッカーに明け暮れる。2001年にサンフレッチェ広島からオファーを受け、広島県出身の祖父の奨めもあって2001 年に入団。その頃から新人離れした卓越したスピードとテクニックを兼ね備えたユーティリティープレーヤーとして注目を集めた。しかし…
2002年、シーズンにサンフレッチェがJ2に降格。1年での昇格を目指すため、新たに実力のある外国籍選手を獲得することとなり、外国籍選手の保有枠(1チームにA登録選手が3人まで)のため、2003年、J2水戸ホーリーホックにレンタル移籍。チームの上位進出の原動力となった。同年10月、日本への帰化をきっかけに、登録 名をトゥーリオから現在の 田中マルクス闘莉王に変更(トゥーリオを漢字に置き換えた)。
2004年、J1浦和レッズに移籍。ここからが闘莉王の真骨頂じゃあないかなと思う。
アテネオリンピック日本代表に選出。初代表選出にもかかわらずチームメイトに、「おまえら、もっと走れるだろ」と檄をとばす。
こういった熱い気持ちを持ち、激を飛ばすプレーヤーは必ず成功をおさめているように俺は思う。三浦和良・中山雅史・中田英寿もそうだったしなぁ。
2006年、オシムジャパン体制で日本代表に選出。11月15日のアジアカップ予選・対サウジアラビア戦で代表初ゴールを挙げる。さらにこの試合の終了直前、FWの高松大樹が獲得したPKを自分が蹴ると名乗り出てオシム監督を笑わせた(オシム監督は中村剛健に蹴らせたかったようだ)。
しかもこのPKを外してしまい、試合後は「もうPKは蹴らない、こんな落ち込みはない……」と落胆していた。オシムもこのプレーに対し「今日の収穫は、だれにPKを蹴らせてはいけないかが分かったことだ」と冗談交じりにコメントしている。シーズン後半はケガを抱えながら、鎮痛剤を服用しながら試合に出場し続け、浦和のリ ーグ制覇に大きく貢献した。
そして闘莉王は、
・2004年 - Jリーグベストイレブン
・2005年 - Jリーグベストイレブン
・2006年 - Jリーグ最優秀選手(MVP)、Jリーグベストイレブン
という名誉を手にした。
そして現在は常に優勝を狙える位置をキープしている浦和レッズで今回の日本代表の候補にも入ってる闘莉王だが、アジア杯出場が難しくなった。25日、埼玉県内の病院で精密検査を受け、左ひざ内側側副じん帯損傷と診断され、闘莉王自身が「全治に3、4週間かかる」と重傷を明かした。オシム監督に報告し、代表合宿を離 脱した。奇跡的復活の望みは捨てていないが、初戦まで残り約2週間と時間は短く、3連覇を目指す代表に暗雲が立ち込めた。
4月中旬の代表合宿では右太もも痛を押して参加したが、故障の多さをオシム監督からしっ責され、失意も味わった。その後はわだかまりも解消。5月のキリン杯は右足付け根痛で招集されなかったが、復帰後は6月17日東京戦で右足首じん帯を損傷しても離脱せず、20日の神戸戦で得点と完封の離れ業を演じた。故障続きで もアジア杯の候補30人に選出した指揮官の信頼に応えたかった。
『僕はまだ希望を捨てていない。奇跡を起こす男ですから。1秒でもピッチに立てるように、そういう思いでやる』闘う男が強い意志を持ってそう言っていた。
サッカーと、レッズが大好きな俺はぜひとも早期回復、代表復帰。そしてこれからも応援したい。
ではまた次回
See you next Happy Tuesday! at the GOLDEN PARK!☆★
Bye×2☆★ KAZUYAでした★☆